今回はHIヒロセ(株式会社ホームインプルーブメントひろせ)の創業者である廣瀬さんに起業・経営の真髄をお話し頂きます。

佐藤:廣瀬さんはHIヒロセを創業、大きな会社に育てられたのですが、現在は会社の代表を退かれておられるので、本誌の「今月の社長インタビュー」のコーナーを今回は「新春特別インタビュー」とさせて頂きました。一代で会社を大きく育てられたご経験と経営哲学をお聞かせください。

廣瀬:はい、よろしくお願いします。

佐藤:まず、創業のきっかけはどうだったのですか?

廣瀬:私は早稲田大学で院に進み、マーケティングの勉強をしていました。当時マーケティングを学んでいる学生は希少で、優良企業に就職も内定していましたが、母が病気になったので大分に帰ってくるようにと言われ、大分に帰りました。

佐藤:ご実家に後を継ぐ家業があったのですか?

廣瀬:私の家系は7代続く瀬戸物屋で、叔父が瀬戸物の卸問屋として後を継いでいました。私は新しくトキハの横で学生からいきなり瀬戸物の小売を始めることにしました。

佐藤:トキハの横なら立地はいいですね。どのくらいの規模だったのですか?

廣瀬:12坪ほどの小さい店舗です。大学でマーケティングを学んでいましたので、これからの日本は高度成長が始まり国民の所得が増えて消費が拡大し小売業は大きな産業になることは間違いないと思っていました。そこで、瀬戸物屋で日本一の小売はどのくらいなのかと東京まで見に行きました。

佐藤:日本一の瀬戸物屋はどうでしたか?

廣瀬:意外にも、たった50坪ほどの店舗でした。これで日本一なら瀬戸物だけを売っていてもたいした成長はない、と思いましたが、では何をどう扱ったらいいのかは全く分かりませんでした。

 

佐藤:当時(昭和38年ごろ)の日本の小売業はどんな状況だったのですか?

廣瀬:それまでは特定の商品を「○○屋」と商品名をつけた小売店ばかりでしたが、上昇志向のある人は「企業」と

して組織化し規模を拡大しようという機運が生まれてきてい

ました。後のダイエー、ヨーカドー、鈴丹、コトブキヤなどの創業者はこの時期「Big ストア」が既に出現していたアメリカを視察に行くツアーにこぞって参加しました。

佐藤:日本に流通革命を起こした名だたる企業ですね。

廣瀬:視察には当時のお金で100万円かかりました。初任給が4、5万円の時代ですから相当な投資でしたが、私も次の「乗り物」を探すために第3陣に参加しました。

佐藤:そういうところに思い切った投資をして学ぶことが成功するためには必要なのですね。視察ではどのような気づきを得られましたか?

廣瀬:アメリカの小売は「お客様の目から見て便利な売場」になっていました。肉や魚、野菜などの食料品を揃えたスーパーマーケット、今のドラッグストアのような日用雑貨品を集めた

大型店舗、衣料品を集めた専門店など、従来の専門店の10倍以上の豊富な品揃えでお客様の目的に合わせ販売する「カテゴリーキラー」です。まさにカルチャーショックでした。

佐藤:そのカルチャーショックで廣瀬さんの経営はどう変わりましたか?

廣瀬:売り場12坪、売上1200万円の瀬戸物屋から、アメリカで見てきたことにすぐに移行できる訳ではないです。まずは店舗の居住部分を潰して売り場を50坪まで広げました。更に通信販売を始めたことで売上が3億まで伸び、その資金で人材を増やすことが出来ました。

佐藤:「瀬戸物屋」として今出来ることをまず進めていった。

廣瀬:そうこうしていると、アメリカに「ホームセンター」という「家を部品にして売る」業態が出来ていると情報を掴みました。木材やネジ、工具はもとよりあらゆる家屋のパーツをプロの方や一般の人にも日曜大工(DIY)用に販売していました。大変興味を持ちアメリカまで見学に行ったのですが、がっかりして日本に帰りました。


廣瀬
:アメリカのホームセンターは15,000平米あって規模が桁違いです。私にはその広い売り場を埋める品揃えや商品の仕入れルートも全く分からない。これは手に負えないと思いました。佐藤:なぜですか?

佐藤:でも諦めなかった。

廣瀬:日本でやるなら、品揃えとしては「家の部品」という前に、生活基盤となる色々な雑貨、インテリア、家電、家具、日用雑貨、カー用品等々を総合的に揃えているお店があれば良いのでは、と考えました。そこで日本の最先端の小売企業を見学するツアーに参加しました。パートさんに仕入れのことを聞いてみると、仕入れはバイヤーなどを使わず、何社もの問屋が直接担当のスペースを自分のところの商品で埋める、ということでした。最大の難関であった仕入れに対して、また目からウロコでした。

佐藤:いよいよホームセンターの1号店ですね。

廣瀬:「郊外の便利な立地の大型店」を目指し、府内大橋の横に出店しました。当時周りは田んぼばかりでしたが、やがてこの場所は大分の南からの玄関口になると見ていました。

佐藤:1号店は順調にいきましたか?

廣瀬:「成功」といえるまでに大変苦労しました。ホームセンターには1500平米は必要でしたが、商調協という法律による出店規制があり当初は890平米しか認められませんでした。規制をクリアしていくには売上を上げることはもちろんですが、商工会議所・消費者団体・学識経験者等の人脈も必要でした。

佐藤:その後同じ業態の店舗をチェーン展開していかれたわけですが、会社の規模が大きくなってくると人材も必要になりますね。

廣瀬:店舗が増えているときは自然と人が集まってきます。他社からスカウトもしました。

佐藤:多くなった従業員の意思統一はどうされましたか?


廣瀬:初めは意思統一が難しかったですね。社長や幹部は会社を大きくしようと励んでいても、一般の従業員は仕事に受け身で会社の成長にあまり関心がなく、なかなかまとまらない。そんな時、稲盛和夫さんの講演を聴き、「人生仕事の成果は、考え方×熱意×才能」という経営哲学に感銘を受けました。その頃は稲盛さんの著書もそれほど発売されておらず、見つけた1冊を手元に置いていました。その後、稲盛さんが経営塾を立ち上げて全国で支部ができていっていると知り、ぜひ大分で支部を立ち上げたいと思いました。大分銀行の高橋元頭取をはじめ
若手経営者に参加を呼びかけ、56名で全国47番目の大分支部を立ち上げ、代表世話人を18年務めました。

佐藤:だいぶ後になってからですが、私も廣瀬さんに経営塾のお誘いを受け会員になりました。

廣瀬:稲盛経営哲学では「利他の心」で仕事に向き合い、「従業員とその家族の物心両面の幸せを追求」します。加えて「誰にも負けない努力をして営業利益を10%出す」。弊社でもこの経営哲学は従業員の心を動かし、みんなで力を合わせて会社を大きくするという目標に向かっていけるようになりました。

佐藤:経営理念は社内の意思統一にとって大切な要素なのですね。

 

廣瀬:もちろん経営理念は大切ですが、さらに従業員へは具体的に「目標」を掲げ、その「達成の成果」に対する報酬も伝えていきます。このとき「2割増しの心理学上の法則」というものがあります。人は皆自分を2割増しに評価している。ですから、経営者から見てこの人はこれ位という評価の2割増しにしないと本人は満足感が持てないということです。このような配慮をしながら、各人に目標を持ってもらい達成に向けて意志を統一していきます。

佐藤:府内大橋にホームセンター1号店を出店してから、大分、熊本、宮崎、そして長崎と次々出店して会社を拡大してこられました。どのような経営戦略だったのでしょうか?

廣瀬:大切なのは時代の流れを掴むことです。「国民が豊かになり消費が拡大する」と見れば品揃えを豊富にして売り場面積を大きくする、「車社会になる」という時流を掴めば都心ではなく郊外に広い駐車場を備えた店舗を出店する。その次は「チェーンストア理論」です。1店舗だけを大きくするのではなく、同じ業態の店舗を沢山出店することであらゆるコストを下げて利益を拡大できます。弊社は陶器の小売からホームセンターのチェーン展開、そして「スーパーコンボ」という「生鮮食料品スーパー+ホームセンター」という新たな業態でのチェーン展開を進めています。常に社会の変化に対応し先手先手を打っていったことが結果になりました。

佐藤:私の実家がある三重町にも「スーパーコンボ」ができつつありますね。三重町は小さな町で、20年前にはHIヒロセとトキハインダストリーしかなかったのですが、「トライアル」「新鮮市場」「コメリ」「フレイン」と次々に大型店が出店しました。大変競争が激しいエリアです。

廣瀬:そうです。これからも利他の心をベースに挑戦意欲と誰にも負けない努力を続けていきます。

佐藤:創業から会社を大きくしてこられた廣瀬さんが、今の若い経営者に伝えたいことはありますか?

廣瀬:小さな成功に慢心しないで、常に学び続ける謙虚さを持って下さい。地道な努力の先にしか成功はあり得ません。

経営とは一瞬たりとも気が抜けないものなのです。そして感謝の気持ちを持って利他の心で

お客様の立場・受け手の側に立って考えることです。このような考えに基づいて常に行動することで、行動が習慣となり、血肉化すれば、それが企業の風土にまでなるのです。

 

佐藤:廣瀬さんの言葉は実践に裏打ちされていますから、大変重く心に響きました。今日は貴重なお話しを賜り、ありがとうございました。