今回は大分市中央町で元フンドーキンの倉庫を改装して「the bridge」を経営されている株式会社the ground noiseの裏社長にお話をお伺いします。
佐藤:ここ「the bridge」はPTAの懇親会などで何度か来させていただいています。いつもこの空間を見て何のカテゴリーに分類されるかな?と考えるのですが、居酒屋ではないし、レストランだけでもない、ライブハウスともちがうしカフェでもない、おしゃれだけど堅苦しくないので、女性からは「次回もここでやりましょう」というリクエストがでる。どういうコンセプトで経営されているのかなと気になっていました。
裏:佐藤さん、なかなか鋭い
佐藤:私が「the bridge」にこれまでにはなかった価値観を感じたのは、裏社長の意図の通りだった訳ですね。裏社長とは長浜神社の神輿などでご縁がありましたが、スポーツマンのようにも芸術家のようにも見えて不思議な印象でした。裏社長から醸し出されるそんな雰囲気は育った環境によるものですか?
裏:普通の家庭でしたが、父は真面目で数字に強い経理畑の人です。母は俳句を詠むような人で、今は湯布院で美術館をしています。芸術的な事は母の影響かもしれませんね。
佐藤:子どもの頃はどんな子どもだったのですか?
裏:網とかごを持って虫取りするようなごく普通の少年でしたよ。いつも一緒に虫取りをする友達がいて、私は虫を捕まえることに夢中なのだけど、友達はかごの中の虫をひたすらじっと見ている。そして彼はとても上手に虫の絵を描くのです。私はちっとも絵がうまくない。それは私が彼のように「対象をよく見ていない」からだということに気づきました。物事を「知る」ためには「よく見る」ことが大事なのだと思いました。
佐藤:小学生でそんな哲学的な事を考えたのですね。
裏:「知らないことを知りたい」という欲求は常にあります。中学の時は音楽が大好きだったのですが、ラジオを聴いていたら「レゲエミュージック」が流れてきて、「何だこれ?」と思うと興味がわいてきてはまる。音楽ばっかりしていたら、先生から「よい社会人になるにはよい高校へ行って大学へ行け」と言われましたが、その言葉に納得できませんでした。
佐藤:常識的な型にはまった生き方はいやだったのですね。
裏:高校へはなんとか行きましたが、大学に行く気はないし、サラリーマンには絶対なりたくない。外国へ出てみたいという思いがあり、福岡の英語の専門学校へ入りました。
佐藤:親元を離れてどんな生活でしたか?
裏:英語はそんなに勉強せず収入を得るためにDJをやりました。自分の着るものや部屋にあるものは自分を表現するものだからと、ライフスタイルにこだわりました。ある日の朝、海辺で珈琲を飲んでいたら、シーグラスが落ちているのに気がつきました。拾い上げて見るととても綺麗。でも、これは人が捨てたゴミから生まれたもの、「ゴミは最終的に何になるのか?」と考えました。海辺にはシーグラスだけでなく、流木も沢山落ちていました。この海辺に落ちているもので雑貨を作って売ってみよう、そしてお金持ちになりたいと思いました。
佐藤:雑貨屋を出店したんですか?
裏:湯布院の今ではメイン通りになっている路面に古びた倉庫があったのを安く借りて、自分で漆喰を塗ったりしてお店にしました。まだ湯布院ブームの前でショップの数も少ない頃です。
佐藤:雑貨は売れましたか?
裏:はじめの2年はあまり売れませんでした。ある時「お金って人が必要と思うときに動くんだ」と気づき、自分の作るものは生活の必需品ではないけれども、「人の心に必要なものを作ろう」と思いました。色にテーマを決め、形に思いを込めました。例えば「赤は愛情」とか流木のロボットは「自然」の象徴で、小さな芽を抱きしめて「自然が大切なものを育んでくれる」とか。すると雑貨が爆発的に売れるようになりました。
佐藤:雑貨に「メッセージ」を感じて共感したら、自分の生活の中にその雑貨を取り入れたくなりますよね。
裏:とにかく売れるので雑貨を作りまくりました。「貧乏暇なし」で、作ることに時間を取られてしまう。それで時間をつくる工夫を始めました。
佐藤:その「時間」は何に使うのですか?
裏:「見たことのないものを見たい」ので、あちこち旅行しました。国内はもちろん、東南アジア、インド、ヨーロッパなど。趣味と仕事の境界線があるわけではなくて、いろんなものを見ながら仕事のことも考えていました。
佐藤:雑貨を売る商売は順調だったのですか?
裏:自分の雑貨だけでなく、作家さんの作品をギャラリーで販売するとそれもよく売れました。湯布院が観光スポットとしてメジャーになり、インバウンドが急増したこともあると思いますが、経営は順調で湯布院に雑貨ギャラリー3店舗、カフェ2店舗になりました。
佐藤:すごいサクセスストーリーですね。今でも湯布院のお店は続けておられるのですか?
裏:いいえ、8年前に湯布院から全て撤退しました。
佐藤:えー、こんなに成功していたのになぜですか?
裏:東京や神戸に出張したりあちこち旅行したりしましたが、ふと「自分はどこに居るべきなのか」という問いが浮かびました。考えてみると自分の生まれ育った大分にはこれまで全く興味がなかったので、自分は大分市のことを何も知らない、と思いました。大分のまだ行ったことのない地域、通ったことのない道、過去から受け継がれてきたこと、知らないことだらけです。
「大分を知りたい、大分に向き合おう」と思いました。
佐藤:それで大分で「the bridge」を立ち上げた?
裏:当時大分駅周辺の再開発で寿町に県立美術館ができることが決まっていました。大分中心部が大きく変わり、人と人との繋がり方も変わっていくと思いました。大分駅から美術館へ人が流れる動線上に使われなくなったフンドーキンの大きな倉庫が残っているのを見つけて、「ここだ」と思いました。
佐藤:「人と人を繋げるオルタナティブスペース」ですね。
裏:銀行に相談すると、「この場所にこの規模では絶対にもうかりません」と言われましたが、もともと常識的な判断に収まりたくない性格なので、どんどん実行に移していきました。
佐藤:集った人たちが料理や音楽、イベントやおしゃべりを共有して楽しい時間を過ごせるような空間に仕上がっていますよね。
裏:音響はライブハウス並み、料理70名分を同時に提供できる厨房の設備、スタッフもプライドを持って働いてくれています。オープン後数年かけて黒字になり、結婚式などの予約が次々に入るようになっていました。
佐藤:そんな順調な時期に、新型コロナ禍という思いもしなかった事態になりました。
裏:業態的にコロナの影響をもろに受けてしまうので、3,4,5月はほとんどお客様に来ていただけなくなりました。
佐藤:厳しいですね。どういう対応をされましたか?
裏:the bridgeを閉店するという選択肢もあるわけですが、スタッフに思いを尋ねると、「給料が出なくてもいけるところまで頑張りたい」という答えが返ってきたので、お店を維持するために銀行と話し合っています。3月には「前売りクーポン」を販売しました。通常より割り引いた価格で12月31日までご利用になれます。大変反響をいただきました。
佐藤:経営者としては大変な局面であると思いますが、裏社長はひょうひょうとしているように見えるのですが・・・
裏:自分の描く店を作り上げていくこと、経営していくことというのはとても長いスパンのことなので、そういう長さから見たらコロナ禍というのはその中のごく一時期の出来事だと思うのです。そんなことも乗り越えながら完成させていくものだと思えば、バタバタすることでもないかな、と。日頃はこんなに時間がとれることはないので、1日50キロ、大分の隅々を見ながら歩いたりしています。スタッフにも自分の成長のために時間を使うように言っています。
佐藤:「with コロナ」というこれからの環境で、どんなことをお考えですか?
裏:今まで通りにいかないのはどの飲食店でも同じです。入店いただく人の数を制限したり、お席の間隔を広く取ったり、テラス席を設けて中と外の空間を切れ目なく解放したり、ブッフェ形式をやめてコース料理にしたり、と様々な対策をして、お客様がコロナのことで不安に感じないように努力しています。
明日は、「ブライダルプロモーション」を開催します。素敵な結婚式を夢見るカップルがコロナ禍で疲れた心を癒やしていただける企画を考えています。
佐藤:コロナ禍という大きな試練も受け止めて前へ進んでいかれていますね。裏社長にとっての経営とは?
裏:かつて雑貨を作り始めたときは「お金持ちになりたい」と思っていたけれど、今はビジネスの目的はお金を稼ぐことでは、なく、人から必要とされるものを提供することだと思っています。「必要なもの」が何なのか、多くの人はそれが目の前に現れるまでは自覚していないのではないかと思います。私はいろんなものを「よく見る」事で、少しだけ人より「必要なもの」を描くことが出来るのかもしれません。まず私が描いたものを形にしていくことで、「これが必要だった」と感じてもらえたらいいと思っています。
佐藤:コロナ禍の不安の中でも、裏社長の作る空間が今の人々の心を癒やしてくれることと思います。今日はどうもありがとうございました。